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ことばの森〜教養としての受験国語〜

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ことばの森〜教養としての受験国語〜
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関西最大手の進学塾『浜学園』で、21年間にわたり小学部・中学部ともに『灘』主体のトップのクラス・コースを担当。
国語を『原則』『公式』を用いて、読み・解くという、ユニークな手法と、生徒の資質を素直に活かす手法で、おびただしい実績を上げる。
国語では稀な、入試問題の驚異的な的中も、数知れない。
生徒が数に集約されていく進学塾での指導に限界を感じ、また『自分の時間』を取り戻すべく、兵庫県西宮市山手の自宅での隠れ家的個人指導のみに切り替える。
同時に、指導内容も、中学受験・高校受験にとどまらず、大学受験・六年一貫校生にも対応することとなる。
また、作文・レポート・読書感想文の指導や、大学・大学院の論文の資料収集・作成にも対応することになる。
2007年より、新たに苦楽園口に個別指導教室を展開する運びとなる。
受験国語は、単なる方便を越えて、人生を豊かにし、人格を陶冶する教養になりうると、いまや、確信している。
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『読書感想文』騒動記@

2007/08/19 20:36
読書感想文の課題に、語学堂高1生たちが悲鳴をあげていたため、8月半ばは読書感想文集中講座のような仕儀となりました。

しかも、私立高の生徒たちにいたっては、未履修事件以後、カリキュラムの改変を迫られた余波で、夏休みは、8月の中旬いっぱいで終わってしまうというていたらくです。国立組は、9月3日始業というのに、実に気の毒なことです。

さて、ある生徒の場合。

課題は、大岡昇平『俘虜記』、三浦綾子『塩狩峠』、太宰治『斜陽』から、一冊選んで、読書感想文を書く、というものです。それ自体は、何ら、不可思議なものではないのですが。

あっと驚いて息を呑むのは、780字以上800字以内、という字数指定です。

まともに、読んで、感想文を書くことを求めているのだとしたら、狂気の沙汰です。

ちょっとした、記述問題の解答の字数程度で、これらの作品の感想文を書けと。

読まずに、解く、という手法を、原則・公式では、多用しますが、ここでは、読まずに、書く、というかたちで、このふざけた課題に取り組むことになりました。ただし、今後の解答作成の基礎となる、記述力の向上には、甚だしく役に立つ手法でもあります。


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久方ぶりの質問

2007/01/09 04:11
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センターの過去問と格闘のさなかの生徒から「幽玄って一体何!」と、キレたメールが。

実に久方ぶりにこのことばの質問を受けました。

というよりも、かつて、非常に頻繁に「幽玄」の意味を尋ねられ続けた期間が十年ほどあったということなのですが。

なぜ、幽玄の意味をそれほどまでに、問われたのかといえば、画像のネクタイピンのせいでした。

幽玄というのは、中世を代表する美の理念であり、何とはなしに奥深い感じ、という、実にファジーないかにも中世らしいことばです。

そして、ネクタイピン。

このネクタイピンをしていた男が、ある日、私の前に座っていました。「幽玄って、そのネクタイピン、一体何ですか」たまりかねた私は、一瞬の逡巡の後に、尋ねましたが、相手は、ふざけたことばを返しました。「幽玄ってなんですか?」そいつぁ、いったい、なんのつもりかね、君、と思ったのは私の早合点で、その人物は、そのネクタイピンを何年となく身に着けていながら、幽玄ということばの意味はまったく知らなかったのでした。

ちなみに、その男は、アマチュアでは最高位の囲碁六段で、トーナメントに出ており、優勝かなんかをしたご褒美にかくもふざけたネクタイピンを日本棋院から授与されたということでした。

彼は、幽玄ってなんですかと問い返した後、私が本気でキレたと踏んで、慌ててこう付け足しました。「いや、囲碁は何かそういうのが多いんだよ。幽玄の間とか、そういうのが」初対面でいきなり、タメか。

そして、親友になりました。というと、飛躍がありますが、後に親友となった男との初対面の会話です。

その後、幽玄は、私が彼を語るレジェンドの一部となり、私が彼から、ネタとして幽玄ネクタイピンを取り上げるに及んで、レジェンドはますます磨きがかかり、それに狂喜した彼は、一時「幽返会(幽玄を返せと叫ぶ会)」なる結社を組織していましたが、私のシンパである生徒たちは、私とは関係なく「幽守会(幽玄を守る会)」を組織して対抗し、長らく楽しくもくだらない日々が続いたものでした。

その後も、彼は、理科講師であるにもかかわらず、プリントに幽玄を多用し、意味を私に尋ねるようにと指示したために、その意味を尋ねる生徒たちが年度初頭には文字通り門前市を成すていたらくでした。

久しぶりに、訊かれたな。幽玄って、何?

何とはなしに懐かしくも楽しくなったものでした。


幽玄、いかがですか。
世阿弥―花と幽玄の世界
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勉強のし過ぎで

2006/12/20 04:02
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死んだ人は、未だ、見たことがありません。
寝ずに勉強しても、限界に達した瞬間、倒れて寝てしまいます。
ですから、どれほど勉強しても、それで死ぬ気遣いはありません。

安心です。

朝型、夜型についての神経質な問いについても、同じことです。

入試前日、全然眠れなかったらどうしよう、と、気に病むひとがいますが、一晩くらい寝なくてもどうということはありません。
むしろ、二日目に向けては、よく眠れることでしょう。
朝型に変えなかったとしても、入試のさなかに、眠ってしまうというほどでなければ、さほど影響があるとも思われません。

それよりも、生活形態を、とにかく、勉強中心にシフトしていれば、何の問題もありません。

ここでいう勉強中心というのは、何も、何時間も続けて勉強しろとか、勉強以外のことをするなということではありません。

勉強することを意識の中心において、まとまった時間が取れなくても、自分の学習の里程標となっている教材を、期限までに仕上げるために、最大の努力をする生活のかたち、ということです。

ついでながら、勉強というものは、結局のところ一人でするものですから、誰かと和気藹々とというのは、勉強ごっこだと認識しておきましょう。その誰かが、 同級生であれ、先生であれ、同じことです。


目覚ましに、お茶、いかがですか。
からだに効くハーブティー図鑑―厳選98種のハーブティーカタログ
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手紙

2006/12/16 03:23
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クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』が、翌日から劇場公開ということで、真珠湾攻撃の8日、栗林忠道中将や硫黄島に駐留した軍人・兵士の手紙が、あちらこちらのテレビ番組で、紹介されているようでした。

昨日、防衛省法と改正教育基本法が可決されました。

私は、宮部みゆきの小説『蒲生邸事件』のことを考えていました。

『蒲生邸事件』は二・二六の東京に時間旅行してしまう現代青年の視点を借りた「歴史」を主人公とする小説です。

この小説に登場する時間旅行者も、硫黄島で戦死しました。そして、そのことを青年に知らせるのは、現代での再会を約束し、果たせぬままに亡くなった、二・二六のころ、若い女性であった老女からの手紙でした。

そして、時間旅行者が召集された理由は、彼が香川県丸亀市出身の人物の戸籍を借りていたために『竹槍事件』の際に召集されることになった、というものでした。

昭和十九年に、当時三十七歳の新名丈夫記者が東京日日新聞に発表した記事が、東條英機の逆鱗に触れ、新名氏を懲罰召集した際に、とばっちりで、故郷丸亀の二百五十人の三十七歳の男性が召集され、その老兵たちは硫黄島等の南方の激戦地でほとんどが死ぬことになった『竹槍事件』。

当の新名氏は、すぐに徴兵を解かれ、海軍従軍特派員となり、戦後を生きて、昭和五十六年に亡くなります。

たった一人の新聞記者を殺すために、二百五十名もの人を巻き添えにする行為の意味は。

硫黄島が太平洋戦争末期の最激戦地の一つであることは事実ですが、丸亀連隊二百五十名を思うと、硫黄島での戦争を、いかなる意味でも肯定するような映画を見たいとは思えないのです。

日米ともに、手を携えて戦おう、というメッセージのように感じられるのは、私の思い過ごしでしょうか。



新名丈夫氏の著作、いかがですか。
昭和政治秘史―その一断面 (1961年)
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月の光

2006/12/07 23:02
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『雨にむかひて月を恋ひ』と、我が先祖兼好も述べていますので、雨降るなか、月の話です。

大空の月の光しきよければ 影みし水ぞまづこほりける(古今集316)
おほぞらの つきのひかりし きよければ かげみしみづぞ まづこほりける

「大空の月の光が冴え冴えと美しいから、映った水が真っ先に凍った」

古今集に対する不当な評価は、正岡子規の『歌よみに与ふる書』が、発端となり、決定的なものとなりました。

大岡信氏が古今集に対する再評価を与えるまで、古今集は取るに足りない歌集であり、紀貫之は下手な歌詠みであるとのレッテルを貼られてきたのです。

不当です。

私は、正岡子規を、非常に尊敬していますが、写実主義の観点から、万葉集を絶賛し、古今集を酷評した子規に対しては、この歌ひとつとりあげても、十分な反論を展開することが可能です。

この歌は、なぜ、そうなのかという科学的な説明を超越して、実体験に基づく事実が、文学に結実したものです。

合理的に説明すれば、放射冷却、ということになりますが、その理屈を知っていても、この歌に対する共感と、この歌の再現力が、損なわれるものではありません。

正岡子規が、あるいは、根岸短歌会の面々が、あるいは、『アララギ』の重鎮の面々が、なぜ、かくも古今集を嫌ったのか、ということについての、私の独断は、ここでは控えますが、斎藤茂吉が、短歌においてあれほど雄弁であったにもかかわらず、実生活では、非常に寡黙であったことに象徴される事実が、非常に大きな意味を持っていると言っても過言ではないでしょう。

ちなみに、表現に関する茂吉の二面性は、時空を超えて、ヤンキースが交渉権を獲得した阪神の井川慶投手にまで、引き継がれているようです。井川氏は、記者会見で発言するたびに、最後に確認のように、うん、と、うなずくのですが、広澤克実氏によれば、語尾が上がっていないかどうかを確認するための、無意識の習慣だということでした。井川氏が高校卒業後、阪神に入団するために、西宮の地を訪れ、入団1年目についたあだ名が『だっぺ』だったということが、井川氏を寡黙な男にしたのだ、と。

関西人には、理解しがたいのだと、広澤氏が指摘していましたが、茂吉が大阪人の折口信夫の歌の詠みぶりを散々に攻撃したのも、彼らと関西人の間の隔絶を示しているのかもしれません。

万葉歌人も関西人ですが、古今集の世界観は、関西文化圏の礎のようなものですから、古今集が嫌われたのも、むべなるかな、ということでしょうか。

ちなみに、茂吉が信夫を攻撃した顛末は、以下の通りです。

茂吉が信夫に対し「君の歌はわれわれの目ざす『ますらをぶり』とちがうじゃないか、軟弱でしかも軽い」と指摘したのに対し、信夫が「此は都人であり短歌におけるでかだんすとしてのわたしに当然起り相な事です」とか「萬葉ぶりの力の芸術を、都会人が望むのは、最初から苦しみなのであります」と言って、「たわやめぶり」に共感したがる自身の傾向を、自分が大阪生まれの都会人であるゆえとの理由に帰している、というような次第です。

考えるまでもなく、折口信夫は、関西人特有の、慇懃無礼な返答をしているわけです。

茂吉、可哀想。


古今集、いかがですか。
古今集・新古今集
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過去問

2006/12/06 23:58
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過去問についての大いなる誤解は、過去問を入試直前の力試しに使えばいいというものです。これは、現実に、現高3生が、自らが通う進学高の先生から言われたことでもあるのです。受験の現場でも、その考え方に、固執している向きも、現実には存在します。

過去問を、入試直前の力試しとして使う方法を、100%否定するものではありませんが、現実問題としては、いかがなものかと思われます。

『三つの時間』で述べた、学習の基本パターン、@問題を解き、A○×をつけ、B直しをする、というルーティーンのなかに、過去問も他の教材群と同等に位置づけるべきです。

過去問にあたるということは、かなりの時間をとる作業で、それを入試直前に、まとめて時間確保するのは、現実的ではありませんし、なおかつ、Bの直し、と関連して、志望校の出題傾向の中での弱点に対応する時間がほとんどない状態では、徒に不安を抱え込むことになりかねません。

しかも、出題傾向を知らずして、入試に臨むのは、よりいっそう、非現実的です。合格すれば進学するつもりで受験する学校については、過去問を解いておくことは、絶対に必要になります。

もしも、受験校が2校で、入試科目が4科目・各科目60分であるならば、5年分の過去問を解くだけでも、40時間必要とするわけです。実際には、中学受験でも60分以上の時間設定の場合もあり、高校入試の数学でも90分などというものもあるわけですし、10年分を解ききろうなどと目論んでしまったならば、解き、採点し、直すだけでも、膨大な時間を必要とするわけです。

過去問を、解き、傾向を実感し、直しをし、弱い分野はできるだけ底上げを図り、という作業のためにも、できうる限り、早くから過去問にあたることが必要となると考えます。


入試問題、いかがですか。
全国・国私立中学入試問題集 (2007受験用)
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本卦返り

2006/12/06 02:05
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驚くべき小学校教諭が、信じがたい不見識なサイトを拵えて、告訴・告発されていますが、みのもんた氏が『みのもんたの朝ズバッ!』の中で、「こころの中にあることを日記に書いて、その日記を抽斗の中にしまっておくなんて時代じゃなくなったんですかね」という旨のコメントをしていらっしゃいました。

確かに、このウェブログも含めて、そういえるでしょうね。

個人の日記が、世界中に発信されるような時代になった、ということです。

しかしながら、日記文学の成立を鑑みれば、それは、誰かに、あるいは、誰にでも、読まれることを前提としたものであったということができます。

そもそも、日本において、日次の記、つまり、日付けを追って展開する日記は、男性が公式文書として記述したもので、これは、当然職務上、公開が前提でした。その公用日記が、個人の日記に応用されるようになっていきます。文学としての日記は、明らかに誰かに読まれることを前提として書かれており、それは、日本の文学史上、特筆すべき作品群を形成します。

もちろん、平安期の「誰かに読まれる」は、オリジナルが一冊しかないものを、借りて写本するということを許される距離の誰か、ということではありますが。

近代、私小説という、どうも、誉められたものではないような文学が、写実主義の移入に伴い、日本で広がってしまったのも、この、日記文学の伝統を汲むものと考えれば、理解はできます。

そして、現在の、ウェブログの時代。

誰かに読まれるという「誰か」の範囲は、信じられないほど拡大しているとしても、日本の文学史上、和文体の完成形と位置づけられる、土佐日記の時代から、千年の時を越えて、再び、誰かに読まれることを期待して書かれる日記が普及しているのは、日本人の文化伝統に照らせば、ある種の本卦返りなのだろうと、氏の発言を聞きながら、ふと、思ったのでした。


土佐日記、いかがですか。
土佐日記―付現代語訳
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三つの時間

2006/12/05 12:22
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十二月に入ると、受験は、文字通り「時間との戦い」になります。

時間との戦い、と、一口にいっても、受験に関わる時間には、三種類あると思います。

ひとつめは、入試期日までに合格に足る学力を身に着けなくてはならないという、「期限」という時間。
ふたつめは、日常の生活時間の中で、学習のための時間を確保しなくてはならないという、捻出しなくてはならない時間。
みっつめは、制限時間の中で考え、かつ、答案を書く、という作業をしなくてはならないという、処理能力を問われる時間。

ひとつめは、事ここに至って、漸く、受験生諸君にも、身に沁みたものになってきているはずです。
そして、その関連としても、ふたつめが、俄かに、切迫したものになりつつあるかもしれません。

まとまって、学習時間を確保することは、年末年始の、世間が浮かれ騒ぐ折には、実に厳しいものがあります。何よりも、身内が浮かれ騒いでいたりする危険性があり、挙句の果てには、受験生などという気ぶっせいな存在は、塾や予備校に預けて、残りの家族だけで、物見にうち騒いだり、ご馳走を食べに出かけたりしよう、などという、実に、くさくさするような事態が、出来する危険性もあります。

それでも、ここに及んでも、みっつめの時間に関しては、未だに、身に沁みて感じていない受験生がいるとしたら、それは、実に危険です。

それにも増して、受験生自身は、身に沁みていたとしても、周囲の大人たちが、そのことに思い至らない場合が多々見受けられます。

中学受験では、一般的には、物理的な管理、つまり、健康・食事・時間・課題量、についての管理は、子ども自身では対応し切れません。その意味で「親の受験」という言い方をされるわけですが、肝心の管理者は、自身が制限時間の中で問題を解く必要性がない環境にあるわけですから、そのあたりの視点が、完全に欠落している場合があるケースが、実に多いように感じます。

制限時間を連続してとることが難しくとも、単位時間当たりの処理能力を問われるのが受験の本質であることを、常に意識していることが必要です。

こういった、三つの時間との戦いの中で、もっとも大切な姿勢は、これまでやってきたはずのことを、繰り返し続けることに尽きます。

つまり、@問題を解き、A○×をつけ、B直しをする、というプロセスを守り続けるということです。このプロセスを、どの教材・講座であっても、守り続けること以外に、努力を担保するものはない、といっても過言ではありますまい。

ここでいう「直し」とは、答えを写すことではありません。また「考え直し」などという不毛な努力のことでもありません。知識の分野については、それでも、構いませんが、思考のプロセスに錯誤があることが、解答の間違いの原因である場合は、そのプロセスを手で書くことが「直し」です。

人間の理解の仕方には、さまざまなスタイルがありますから、数学の論証や計算のように、途中を端折っては話にならないものもありますが、国語については、納得の仕方は、バラエティに富んでいるのがふつうです。

国語については、解答の根拠となる部分を、本文・設問の表現に求めて、納得できれば、それを簡単でも構いませんから、必ず、書く、ということ。これが、国語の『受験学習』のなかでの自主学習の王道であり、ほとんど、唯一のものです。

学習スタイルの基本を見失わずに、残りの日々を、一題でもしっかり解き、直しをしていきましょう。



古文の参考書、いかがですか。
MD古文
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